中ほどで聞取り難いところあり
昭和49年3月11日 朝の御理解
御理解 第57節
「金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる 神を杖につけば楽じゃ。」
神を杖に付けば楽と言うおかげを頂かして貰はねばなりません、どういう時が神の杖を付いておる時か、どういう時が木や竹の杖に付いておる時かと、いうことを何時も確かめて、行かなければいけません。
自分の心状態は今は楽だ心も平生だと、ま信心ということの有り難さも感じておる、それだけで楽だから、神を杖に付いとるとは言えないのです、お金もあるまぁ充分にある、おかげで今健康でもある、商売もまぁ具合よう行っているね。そういうおかげを頂いておるから心が楽だと、いう様な場合もあります。
いうなら、懐に金が沢山あるから、安心しておると、言った場合もあります、だからそういう時には、なかなか神を杖に付いておるから、楽だということと、けじめが付かない様な日があります、そこでそのけじめを、一つはっきり解らせて貰う信心を頂かねばいけません。
それには例えていうたら普通で言うならば、不幸せとね言うなら難儀と、そういう難儀、普通でいうならば、幸せではなさそうにある、状態の時が一番解るんです、自分が神を杖に付いておるか、どうかということ。
どういう人から見て、あっちは不幸せだなと、又はお金が無くなる、お金が無いとまぁ貧乏しておる時ね、又は難儀に直面しておる時、そういう時が一番解る。
今まで付いておったのは、木や竹であったなと、本当に神を杖に付いて居れなかったなと、いうことやら、私はやっぱり竹や木を杖に付いておったのじゃなかった、やっぱり神を杖に付いておったんだということがはっきり解る。
例えば難儀なら難儀に直面した時です、そこで不安もなからなければ心配もない昨日あたりから頂きます様に、是は神様の御都合に違いはないと、神様の懐の中にもう足を一歩踏み入れた是は考え方です、いうなら神を杖に付いておる人の姿です、はぁ金はある健康ではある、家庭もどうやら円満に行っている。
商売ももうとやこう言っている、まぁだから安心のおかげを頂いておる、まぁあれやら是やら揃はんでんよか、お金ならお金が沢山今ある、だから心が安らいでおる、それは本当に安らいでおるのなら良いけれどもです。
それは、ただ金があるから、安らいどるのじゃなかろうか、物に恵まれとるから、安心しておる様に、見えるのじゃなかろうか、まぁ子供達の、出来が良いから、安心しておるのじゃなかろうかね、子供の出来が悪い、親の目から見ても、矢張り目に余る様なところがある。
お金は不自由所か、借金を一杯持っておる、体は健康ではない、家庭もとにかく矢張り円満とは云へないという様な中にあってもです。ああ信心しよって、こげん貧乏しちゃ神様に対して相済まぬ。
信心しておって、この様に家庭が何時もぶっすりがっすりする様な事じゃ、本当に近所に対してでも相済まぬ、信心しよって何時もかつもこんなに病気しよったんじゃ、神様のお顔に泥を塗る様な事。
信心をしよってからこういう災難に遭うたんでは、信心させて頂いておる、値打ちがないという様な、考え方をするとするならね、あなたは竹を杖に付いとったんだ、又は金を杖に付いとったんだと、いうことになるのですよ。
例え貧乏しておっても現在はです、家の中がいうならば、円満でなくてもですよ、体は不健康であってもですよね、信心しておっても、どういう、例えば災難なら災難に遭った場合であってもですよ、是は神様の御都合に違いはないと、神様の御守護の中に、いうならば、親先生御取り次ぎの圏内に起こっておることなんだと、心の中に、ゆとりがあり、安心があり、いよいよ一段と、信心を進めて行かなという時こそが、神を杖に付いている時ですね。
だからそういう時には、人が笑うでしょう信心の無い者は、あげん信心しよって、あげん貧乏しよってというでしょう、いうならば次の五十八節を読んで見ると良いです。
人が泥棒じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ、盗人をして居らねばよし、乞食じゃと言うても、貰いに行かねば乞食ではない、神が良く見ておる、しっかり信心の帯をせよ。
しっかり信心の帯をしていると、例へ人からバカと言われてもそれこそ乞食じゃと言われても泥棒と言われても、神を信じ神を杖に付いておる時に腹が立つ訳がありません。
何にも知らん人がいうておる事だから、それに例えばんなら、腹が立ったりいらいらしたりするとするならです、今あなたは神を杖に付いている時じゃないと知らなければならんです、しっかり信心の帯が出来て居ない時だと、知らなければいけないです。
どうでしょうか、信心の有り難い事も、だんだん解った、体験も沢山持っておる、朝から晩まで金光様を称えている様であるけれどもです、もう迂闊にして、神を杖に付いて居ない事が多いのですお互い、その証拠にはちょっとどうか言われたら、もうすぐ膨れる、一寸どうか云やあーもう心が暗くなる、一寸何かがあるともう心が苛々する、それが神を杖に付いてない証拠なんですよ。
如何にも朝から、朝昼晩私は御祈念をしよりますと、言たっちゃ、それは神を杖に付いておるのじゃない、ところが事実は私共の心の中に、様々な心の状態、心の起伏とでも申しましょうかね、まあそれが業というものであろうか、廻りという様な物であろうか、という様な心の動きという様なものを私共は感じさせて頂いてならです。
まあ例えて申しますと、今から商売にでるまあ私が商人ですから、商売の事ばかり申しますけど、さあもう商いに出る時間だと、というのにどうも心が重かったり、どうも苛々する、腹が立つ、こういうことで商売に出たっちゃよか商売が出来る筈がなか。
そこで私は、お取り次ぎを頂くというては、勿論の事ですけれども、まあそう一々なら合楽に電話かけたり又はお参りをしてから、そしてから商売に行くという様な事もなかなか出来ません、そこでです、家の御神前に座る事です、そしてです心行くまで御祈念をする事です。
そして心の中に何とはなしに心が、安らいだ心になるまで御祈念するのです、そういう心の状態で、お商売に出るなら、交通事故に遭う事もないでしょう、商売は必ずうまく行くでしょう、もうすでにそのところから、神を杖に付いて出かけよりますから。
神様に打ち向うて一生懸命御祈念をする、一生懸命お縋りさせて頂く、心が安らぐそういう時こそが神を杖に付けば楽じやという心の状態、に言うならば、完璧ということじゃありませんけれども、それに一番近い時です。
是から先録音が悪く聞き取れなかった
神を杖に付いて心が楽になって、心が安らいで来る、そういう心の状態で、勤めに出る、そういう心の状態で、商売に出る、そういう心の状態で商売に出る、そういう心の状態で仕事にかかる、だから例えば、時間を惜しまずに、そういう時には自分の心の、平常心を取り戻しておいて、言うならば神を杖に付いて、付けば楽と、仰る。
その楽な心を頂いて、の御用であり、商売に出るということに致しませんと、失敗を致します、いやそういう私は、その位目の詰った信心をせなければいけません、いけないと思う、是は私は神を杖に付けば楽じゃという、一番初歩の信心の在り方だと思うですね、そして本当の意味に於てです、神を杖に付けば楽じゃと。
昨日でしたかね、一昨日でしたか、永井肝四郎先生のお話をしましたが、和賀心時代を創るという本が学院生全部に配られました、その時にテキスト替りに、この和賀心時代が使はれた。
そういう時々に、確か西岡先生が修行中でした、手紙が参りました、その中にこの、五十七節の御理解があった、金の杖を付けば曲がる、竹や木は折れる、神を杖に付けば楽じゃと。
如何にも私は信心者で御座います、私は信心者であります、というても、あなたが楽でないならば神を杖に付いているとはいえない、と分らせて貰うて、いよいよ神を杖に付く、楽な信心、楽なおかげ、を頂かねばいけないという。
私の話しが出ておるのを永井肝四郎先生が教祖の御教えを是程に極められた事はないというて、話されたということです。
教祖様の沢山の御教えがあります、その沢山の御教えをです、是程極めた言葉はないと、今あなたが楽でないならばあなたは神を杖に付いておらんのだ、如何にも一かどの信者で御座います。
朝から晩まで金光様を称えておりますというても、あなたが楽でないとするならば、不安であるならばです、心配であるならばです、苛々したり腹がったりするならば、あなたはまぁだ神を杖に付いているとは言えないのですよと。
その事をね、教祖の御教えのいうならすべてを結集して、結局ここんところを、頂かせたいという御教えなのです。
だからもう極めに極めた言葉だとまあ言うならば合楽の大坪という先生を見直したという意味の事を仰ったということが手紙で来ました。
こんなに教祖の神様をお言葉を極めた表現はないと、だから今日はそういう素晴らしい事と聞いて頂いておる、それで如何にも一かどの信者で御座いますと、杖についとりますかの様にあるけれども、それは今あなたが健康だから。
今あなたが懐に沢山金を持っているからもしあなたの健康に、何か降って湧いた様な変化があったら又はあなたの懐の中の金を全部出してしもうたりしたら、もう不安で不安でたまらんと、いう様な楽では、本当の楽ではないということ。
ですからそういう例えば、信心を身につけて行く事の為のいうなら今日は具体的なお話しだったと思うです。矢張り結局はです、どんな場合であっても、神を杖に付いておけば楽だと、微動だもしない。
人から泥棒じゃと言われても、乞食じゃと言われても腹の立つ段じゃない解らない人の為に、祈らせて貰う様な、信心が私は教祖が願はれる信心とはそういう信心だと私は思うです、楽の様に見えておって実は楽でない、神を杖に付いての楽ではない。
温泉に入ってああ極楽極楽ちょうるとはあれは本な極楽じゃない、それこそ冷たい水のいわば飲んでみても大した別の味合いという味も全然ないいうならばその水は冷たい、そういう何でもない、水の御恩徳とでも申しますか。
いうなら水の有り難さというものがです、解るということが、信心なんです、特別の温泉にども行ってから、湯舟に浸かっている時、極楽と云うておるのは、本当の極楽じゃない、本当な極楽じゃない、日々がある意味に於てです、平凡な変哲もない、いうなら一日であったと致しましてもです。
それが有り難いそれが尊いという、信心にならなければ今日私が申します、楽というおかげにはなって参りません。
何か特別のおかげを頂かねば何か棚からぼたもちが落ちて来た、ときにああ有り難やというときには、有り難いのではなくてです、いうなら平穏無事であるということ、そのことがもう最大のおかげであると実感して貰へれる様な、信心を願って、行かなければいけません。
私どもが金を杖についてはいけない、竹を杖についてはいけないということはありません、神を杖につけば楽じゃという心で。
以上の所迄聞き取れなかった、以下は正常
金にも又竹にも依り掛かっておるという様な事なら有り難いです、そういう楽な心が頂けて、そしてお金もふんだんに健康も充分にね、商売は繁盛の大みかげを頂いとるという、そういうおかげを頂いた時が本当の極楽なんです。
だから金のない人が金かねというて、金に頼ろうとするところに、がっかりせなければならん、言うならばもう家の息子だけはというて、息子に余り頼っとるけん、息子が反対の事すると、もう腹が立ったり、いやその息子が事故に遭うて死んだりすると。
もうこの世は、闇だという心しか、後に残りません、そりゃ息子も娘もそりゃ有難いね、只戻って親孝行するより越した事はない、だからそこんところは良い、例えば教息というのがあります、殿様がこう付いている脇息の様なもんです。
自分からそれに縋らうとすると、その脇息をフッと引かれたら、自分がひっくり返らんならんね、けどもさぁどうぞと云うて、その脇息を持って来た時にそれを付くだけなら、こげな楽な事はないでしょう。
お金でもそうです、お金お金と言いよるお金をぽっと引かれたらもう、ぽっとひっくり返らんならん、けどもどこでもとどうでもというてそのお金を持って来られたら、そうですかというて、懐へ入れたらそれで良いとね、人でもそうです。
あの人を頼っとる、私はあんたば頼りにしとるというても、それが反対の事になったらそれこそひっくり返らんならん、けれども脇の下まで来て、どうぞ私を使うて下さいという時に、あっそんならこうして下さいと言うたら楽、そういうおかげが本当の楽ですおかげです。
あの人ば頼りにしとるとか、しとったのにあの人がとうとう来じゃったというて一日、いわゆるがっかりした一日を過ごさなければならないね、私は今日のこの五十七節はです、今申します様に教祖様の御教えの全てを結集して、極めに極めた言葉が神を杖に付けば楽じゃということです、本当の意味に於て、神を杖に付けられる、信心を頂きたい。
それをま例えば具体的に一番初歩のところから、お話を致しました、それは私は御祈念だと思います、心が不安定、心配がある、どうしても心配がとれないならば、お取り次ぎを頂いて、お願いするがよい、そしてその心配が、なくなって、次の行動に移らなければいけません。
どうも心がいらいらして仕方がない、そんならまず御神前に座るがよい。五巻大祓を上げてまだいけんなら十巻上げて見るがよい、そして心に平常心を取り戻して、次の働きに移って行く様な行き方をしませんと。そげん時に交通事故に遭うたり、お商売がうまく行かなかったりするのです。
ですから心にまず、はぁこういうのが神を杖に付いておる時だなという様な、それは断片的でありましてもです、そういう様なおかげをだんだん頂いて行く内に、いよいよ神を杖に付けば楽じゃという、完璧ないわば信心がだんだん身に付いて来ると思いますね。
どうぞ。